<ボランティア体験談>前に進むために行動している人たちがいる(東日本大震災災害救援)

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東松島復興支援の様子ずっとこの団体でボランティアを続けている友人から、
以前から何度も何度も何度も何度も
『東北に来て。
来るべき。
来なさいよ。
行くといいよ。
行こうよ。
お願い。』
などなどと誘われ続けていた。

先日、昼食を食べていたら、
そこにその友人がやってきて、
「今度東北お祭りのお手伝いをするの。
子連れでいいから、子供の社会勉強にもなるからどう?」と言われ。
それで参加することにしました。

当日は朝9時に集合。
集まってきた3人の女性達は
ネットで応募されたとのこと。

大学生の姉妹とOLの女性。
姉妹の一人は愛媛から、
一人は兵庫の西宮から、
それぞれ夜行バスに乗って東京に着いたばかりという。

13時過ぎに東京を出発し、
19時頃に宮城県東松島市の仮設住宅の集会所に到着。
仮設住宅は、元々は公園で野球場だった場所に建てられている。
言われてみれば、照明設備が広い範囲を照らす野球場のものだということに気がつく。

翌日はお祭りの当日だ。
朝からみんなであんこを溶いてあたため、団子を用意し出店の準備をしました。

出店では100円を受け取り、
カップに白玉を入れ、おしるこを入れ、スプーンとともに渡す。
カップ持参のおかわりは50円。
実際できるかどうか、始まる前に代わりばんこに練習を行いました。

お祭りが始まり、広場の真ん中で机をならべて全長36mの長のり巻き作り。
住民の方々が並んで、巻いていく。
できあがって、なが~いのり巻きをみんなで持ち上げて完成!

それは住民の方々に配られる。
その後、ボランティアにも配られ、私も頂いた。

私たちは販売をはじめる。
お客さんが次々にやってきて、最終的に予定した量を完売。
息子は他のメンバーとともに出張販売にも行ってきた。
その後設置したテントや椅子を片付けてお祭りは終了しました。

スーパー銭湯に皆で行きました。
その前に海岸沿いの被災地の様子を視察させてもらいました。
ずっと遠くまで更地になっていて、道路だけがある。

遠くの松林で、斜めになっている木が何本か見える。
海に面して真新しいテトラポットが。
巨大なコンクリートの塊が海岸線をずっとと向こうまで埋め尽くしている。

夜、お祭を主催し、また当団体を
今回の祭りに呼んでくださった
仮設住宅の自治会長さんがいらっしゃった。
そして私達に話を聞かせてくださった。


■仮設住宅の春祭り。なぜ、何のために開催するのか?

被災する前は、普通に挨拶したりする関係だったご近所さん。
しかし、仮設住宅に入り、5人家族だったのが、3人になっている。
亡くなったのか、別れて住んでいるのかわからない。
聞くことができない。

前だったら、顔見たら「おはよう」って挨拶してたんだけど、できなくなってしまった。
先行き不安で、気持ちがふさいでしまって外にでることができない。
取り残されたと感じている人たちに、
できるだけ誘い合って外に出てきてもらう機会を増やしていきたい

今回の春祭りはそれが目的。

新聞やテレビなどの報道機関にお祭りを実施することを伝え、各社から取材がきていた。
NHKの7時のニュースで全国放送で流れ、
お祭りを通して被災地の現状が伝えられることになった。

■震災、津波被害の悲しい話

・青い鯉のぼりプロジェクトのきっかけ
お兄ちゃん二人は学校に、
当時幼稚園に通っていた律くんはお母さんとうちにいた。
地震が起こり、津波に襲われ律くんとお母さんは亡くなった。
後日、うちに戻ったら、
律くんが大事にしていた青い鯉のぼりがでてきた。
これを泳がせて、俺達は元気でやっているってことを伝えよう。
ということではじまったのが翌日手伝いにいく青い恋のぼりプロジェクト。

・肺がんの手術中に地震、津波、停電
看護師が集まってきて手術を続けてくださいとペンライトで照らす。
手術は無事終わり、自衛隊のヘリコプターが救援に来て、別の病院に搬送され生き残った。

こういう人たちもいる。彼らの下した決断の結果、生き残っている。

■避難所、仮設住宅の話

子供の力を活用する。
水がやっと届いた。ペットボトルに50本だけ。
でもここにいるのは100人。
どうやって分けるか。
40家族いる。一家族に一本にしよう。
でも、一家族っていったって、一人のところから5人家族のところまである。
不公平じゃないかと文句を言う人も出てくるだろう。
そんな時に、小学3年生の女の子に配る役をやってもらう。
そして、大人は大人としてのお手本を示しましょう。
と言っておけば文句をいう人はでてこない。

トイレ掃除、水は流れない。貯まる一方。
大人がローテーションで掃除をやりましょうと決めたところで、
結局誰もやらない。
中高生を集め何人かごとのグループにわけ、
グループごとにローテーションさせる。
学生がトイレ掃除をはじめたら、大人はやらないわけにはいかなくなる。

こうした子供、青年ならではの力がある。

■これから未来に向けて

将来に向けた移設先を日本一の街にする。
街での住居の割り振りをくじ引きにはしたくない。
で、どうするか?
将来そこに住む人たちが交流する場を作った。
移り住む前にお互い顔見知りになっておく。
以前近くで仲良かった人とは、移設先でも近くに住めるようにする。
地区の名称を公募した。

名称が「あおい」に決まる。

市長に働きかけて、住所もあおいになるようにする。

私は一番最後にこの仮設住宅をでる、と自治会長さんが仰っていたのが印象的だった。


翌日の青い鯉のぼりプロジェクト。

もともと泳がせていた鯉のぼりに加えて、さらに追加の鯉のぼりをロープにかける。
私達はそのお手伝いをしました。

青い鯉のぼりプロジェクト発起人、亡くなった律くんのお兄さんの健人くんの開会の言葉。

「全国からお越しくださってありがとうございます。
ここで何を感じてくださってもいいと思います。
いろんな想いがあっていいと思います。
でも、それが希望だったとしたら僕はうれしいです。」

この彼の言葉を聞いて、悲しいわけじゃなく、でも涙がでてきてしまった。

ここにはかつて街があった。
今はずーっと遠くまで更地が続いている。
何もないように見えるけど、ところどころに破壊された生活の跡が見える。

壊れた弁当箱、皿の破片、家の土台のコンクリート、ねじまがった鉄筋。
そして、ここで泳いでいる600匹を超える青い鯉のぼりと集まってきた大勢の人々。
起こってしまったこと、それはここに住む人全員に大きな傷を残し、
それはまだ癒えたわけではない。
でも前に進むために、未来に進むために、行動している人たちがいる。

今回、復興支援という名目で国際サイエントロジーボランティアの一員として
助ける立場で東松島市に行ったわけだが、
このひどい影響をプラスに変えて未来に向けて進んでいこうとしている
人たちの存在を知り、逆に自分が元気と勇気をもらって助けられたような気がする。

息子が帰りの車中で話してくれたこと。

「どこもきれいでちゃんとしてるように見える。
でも、津波のあとはまだ残っていて、
まだ大変なのは変わらないのがわかった。
なにか役に立てることをこれからもしていきたい。」

大人7人子供1人で、そのうち初参加が私と息子を含めて5人という状況で、
現地で受け入れられグループとして活動できる。
これは、これまで国際サイエントロジーボランティアがずっと活動し続けて、
地域の方と信頼関係を保ち続け、
そこで活動するためのノウハウの蓄積があるからできること。

懲りずに私を誘い続けてくれた友人と、
これまで活動を行って支援を続けてこられた大勢のボランティアの方々に感謝。

(2014年5月参加)

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